雨の娘


 娘は、人買いに連れ去られていきます。
わずかなお金を握り締めた母親は、その様子を泣きながら眺めていました。
 その親子は、父親と共に仲睦まじく生活をしていたものの、家計を支えていたその父親が亡くなってしまい、途端に生活に困るようになったのです。
精一杯がんばったものの、もう何も売るものはなくなり、最後に売れるものは娘の体だけだったのです。
 そうして、娘は自ら進んで売られていきました。
母の、不安のない生活を望んで売られていきました。

 母親は、どこかの大きな商家や貴族の元で働き、毎月仕送りを娘からもらえるとは人買いから聞いていました。
ですが、そんなわけじゃないのはわかっています。
もっともっとひどい境遇に身を落されて、二度と娘の無事な姿も見る事ができないようになる。それはわかっています。
毎日、毎日娘の無事を祈り、また再び会えるのを願っていました。
もう不可能だと思いながらも。
 ある日、もの凄い嵐が来ました。
川は岸辺の全てを飲み込み、海は鬼神の怒りを買ったかのように荒れ狂い、凄まじい雨が滝のように屋根に打ちつけ、今にも破られるようでした。
あの母親は、下手に外に出たら水に流されるかもしれないと、畑にも行けず、外から一歩も出られずにいました。ですから外に出られない分、娘の無事を祈るのに時間を費やしていた時でした。
 ドアの向こうに何かがいる、気配を感じたのです。
こんな日に誰が来るのでしょう。
「道に迷い、どうにもならない旅人が来たのかもしれない」そう思い、そっとドアを開けて隙間からその気配を感じさせた者を見ました。
娘でした。

 あの、売られていった娘がドアの向こうに立っていたのです。
夢中で母親は娘の元に駆け寄ります。
でも、娘はきょとんと、母親を何か初めて見るものの様な目で、感情を出さずにいます。そして何も身に付けず、何よりこんな日にどうやってここまでやってこれたのでしょうか。
それでも母親は娘を抱き締めようとします。
 ぱしゃん。
抱けません。
娘の体を通り抜けてしまいます。
 何度やっても。
ぱしゃん。ぱしゃん。ばしゃん。
上から水面に向かって抱き締めるような感触ばかり娘は母に伝わらせ、抱かせませんでした。いえ、抱けませんでした。
 ただ、母も初めて見る娘の不思議そうな表情を見せるだけでした。

 急に、雨は上がっていきました。
娘は変わらず何もせずに立っています。
母親は、ゆっくりと手を伸ばし、娘の顔に触れました。
ぴちゃん。
娘の顔に手が入り、水の中に手を入れた感触がして、手が濡れただけでした。娘はもう人の体をしていなかったのです。
水の体をしていました。
 わっと、母親は泣き崩れます。
「あの子はもう、死んでしまったんだ」
そう確信できたからです。
ここにいる娘は、娘の最後の母への感情がどうにかしてやってきた精霊の様なものだったのでした。
 次第に娘の体は透けていき、終いにはなくなりました。
足元のぬかるんだ地面に伏して泣いている、母を残して、いなくなりました。

 母親は、娘のための小さな墓を作り、あの世での平安を祈りました。
娘が命と引き換えに作った少ないお金を糧に、細々と生き長らえながら、あの世での平安を祈りました。



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